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昭和期の川渡り神幸祭
山笠には幟山笠と踊り山笠があり、踊山笠は平屋のような造りであった。
幟は紅白とあり、白旗は天下泰平と五穀豊穣、風治八幡宮と書かれている。
今のように彦山川の水位調整がなかった時代は河床が露出していた時もあった。
木の車輪があるとはいえ重量物の山笠を動かすには息を合わせる必要がある。
写真は鉄砲町地区。
上伊田西地区は山笠の代わりに獅子楽で神幸祭に参加する。
「獅子が舞わねば神輿が動かぬ」とも言い伝えられる。
踊り山笠は大正時代に市街化に伴い生まれた町部の山笠である。
かつて六台あったが少子化のため出せなくなり、橘町地区が最後であった。
白鳥神社は白鳥町と古賀町の氏神神社。長いお神幸を経て彦山川で合流する。
激しく神輿を練ると観衆は大いに喜んだ。この声援に押されて尚一層奮起する。
武徳殿とはかつて武芸の稽古場だった際の呼び名である。
風治八幡宮は国鉄田川伊田駅と駅前商店街に近くにあったことから、遠近からの参詣者で神幸祭は多いに賑わった。伊田は当時の経済中心地であった。
ゴロタ石の川床を移動する手段として生まれたのが「ガブリ」である。
山笠を大きく上げ、勢いをつけて石を乗り越えるのだ。
指揮者の采配は山笠の命運を握る大事なもの。息を合わせ心をひとつにしないと動かない。山同士の接触などから他の山笠と喧嘩になることも度々あった。
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